ARTIFACTさんの、とても興味深い記事を筆頭に、「今、再びSNSについて考」が盛り上がっていますね。
ARTIFACT ―人工事実― | あらためて寂しさ再生産―SNS流行後の人間関係―
面白いです。コミュニケーションの選択肢を増やすツールが、逆に様式化されることで、社会的なルール=コミュニケーションの縛りになってしまうと。「Mixiで足跡つけたのに、日記にコメントくれないなんて!」ギレは、携帯だと「着信履歴に残ってるんだから、かけ直せ」、メールだとリプライするまでの時間が人によってかなり違うとか、そういうことでしょうか。
SNSが出始めのころ、ブログとの比較で「ブログは目的があってコミュニケーションしたいときに有用」、「SNSはコミュニケーション自体が目的の場合にいい」という意見に、なるほどと思いました。しかし「寂しさ再生産」的な観点からみると、むしろコミュニケーションの新しい束縛、ソーシャル・ルールを作ることで、つながりを確認すること自体が、サービスとしての面白さだったのかも、とも思えます。
ソーシャル・ルールといっても礼儀作法とかではなく、「友達なんだから、一緒に○○するだろ」的な、暗黙の了解、その逆もまた真なりで「一緒に○○してるから友達である」という再確認の論法?もちろん論理演算的には間違っているんですが。
ところで話は飛びますが、数年間に3週間ぐらいハワイ、しかもホノルルとかではなくて、カウアイ島の田舎町みたいなところを巡っていたことがあるんですが、そのときに実感したのは、フレンドリーという言葉の奥深さですね。
サーフィンして浜辺に上がって、たまたま通りがかった地元の兄ちゃんと「ヨオッ」とか言って話し始めるのですが、基本的に「他人」と「知り合い」の間の垣根が異常に低い。「前に一度、どこどこで会ったことがあるから」とか「あいつは誰々の友達だから」とか、そういうルール以前に、通りすがりで「オッス」と話して、結局名前も知らない、みたいな。
この場合、「朝一番の波はどうだった」とか「風が午後にどうかわるか」とか、その時、その場所でシェアすべきコンテキストが沢山あるので、名前とかのプライオリティーがあまり高くないのかもしれませんが。
最後に一応、SNSに話を戻すと、ソーシャル・ルールに対する個人的な感想としては、昔から親にも「生きているのか死んでいるのか分からない」といわれるほど連絡不精なので、Mixi疲れをするほど使い込めないので、よく分かりません(笑)。メールアドレスを調べなくてもメッセージが送れるので、ライト・ユーザーとしては便利に使っています。
コメント