「オープンで無いソフトを書いたり使ったりするエンジニアはリスク」という考え のエントリーで、ちょっと書ききれていなかった部分があるので追加してみます。
リスクというと、無ければいいような気がしますが、リスクを冒さないと得られないモノもあります。
ソフトウェアで例えると、パフォーマンスをあげるために汎用性を犠牲にしてカリカリにチューニングしたり、高価なプロプライエタリなソフトを採用したり。情報に関しても、公開することと隠すことの双方にメリットとデメリットがある。
リスクを取らないとリターンが得られないので、重要なのはリスクがコントロールされていること=リスク・マネージメントという発想がまず第一の前提。その上で、オープンであるかどうか、どうにも議論が噛み合ない場合があるわけですが、実はお互いに当然だと思っていることが食い違っているのかも。
この点が、USのエンジニアが「クローズドな環境で情報を公開することに合点がいかない」原因なのかもしれません。
「オープンで無いことはリスクである」と考えている人と、「オープンであることがリスクである」と考えている人が、お互いにその違いに気づかずに会話していると、「なぜ?なぜ?」と端々で納得がいかないケースが多々あるのかなと。
しかもそこに、「リスクはマネージできればいい」という考えと、「リスクはとにかく避けるべきだ」という点でもすれ違っていると、話が平行線をたどる可能性大。
具体的な話に戻すと、
「この部分は、オープンな技術が存在していない、あるいはそれ以上のものが絶対必要とされるから、リスクを取ってプロプライエタリな開発をおこなおう」という考えと、「本当は全部自分たちでやりたいんだけど、工数や技術が足りないからオープンなものを(イヤイヤながら)使ってみよう」
あるいは
「まずは情報を公開する前提で、どうしても必要な場合だけ非公開にしよう」という考えと、「何がおこるか分からないから基本非公開。許可を与えたものだけ公開」
両方のケースで、前者と後者は同じようなことを議論しているようで、実はまったく違う状況になり得る。
なぜこの違いが生まれてくるのか。「そもそも情報はどうあるべきか?」という思想理念や、イノベーション指向なのか、あるいは管理指向なのか。そういった複数の要因が結びついた結果なのかもしれません。
前回のエントリーを引用していただいて、梅田さんが書かれている、「次の10年はどういう時代か(4)」で、ITベンチャー企業群の「狂気の継続」という表現は、実はすごくフィットする言葉なのかもしれません。他人に「あいつは、おかしい」と言われていても、当人はごくあたりまえのことをやっている、と思っているのが狂気の正体だったりも。誰が本当におかしかったのかは、時がたって後にならないと分からないのも、これまた困った面白さではあるのですが。
新しい考えは、周囲の人を説得できた時により大きなうねりが広がっていくわけで、その場合はかなり意図的に「どうすれば理解されるのか」という具体的な手段が必要になるのでしょう。そして、そのフィードバックをオープンに受け取れる、ということは確実に進歩を加速するのだと思います。
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