カナダの燃料電池ベンチャー、バラード・パワーシステムズという名前は、ニュースなどで耳にしたことがあるのではないでしょうか?最近ではトヨタやホンダが水素燃料電池エンジンの自社開発に成功して、一時の独占状態から多様な競争環境になってきましたが、それでもインテル・インサイドに例えてバラード・インサイドという言葉があるほど、次世代エネルギー革命といえばバラード・パワーシステムズの名前が第一にでてきます。
そのバラード・パワーシステムズのサクセスストーリーは、メキシコ国境まで0.5キロの南アリゾナの田舎町、カルト教団がコミューンへの来訪者宿泊施設に使っていた、悪臭の漂うモーテルを2000ドルという格安で手に入れるところからはじまります。ジェフリー・バラード、キース・プレイター、ポール・ハワードという3人のバラードパートナーズが、ゼロから築き上げるのは、単なるベンチャー企業というだけでなく、21世紀の新しいエネルギーシステム、そしてその技術が実現する新しい社会の価値観でもあるといえます。
トム・コペル著の「燃料電池で世界を変える」は、バラード社創業者たちへの綿密なインタビューからなり、同社の発展の過程をつぶさに知ることができるだけでなく、「新しい価値観から、どのようにビジネスをつくりだすか?」「可能性のある、筋のいい技術とはどういうものか?」「ベンチャー企業として、どのように資金調達をするか?」「いかにして自動車メーカーという、超巨大企業と渡り合うか?」そして、すべての根底に流れる「常識や、一般通念を超えた、新しいテクノロジーへ挑戦する」とはどういうことかを垣間みることができます。
次世代エネルギーやベンチャービジネスに興味があればなおのこと、そうでなくても、ジェフリー・バラード氏が自分のビジョンを実現していく過程はドラマチックで共感を呼ぶます。
バラードは真の課題を、新しいエネルギー転換システムなり装置を見つけることだと考えた。使いやすく、エネルギーを経済的かつたっぷりと持ち運びしやすい形に転換でき、特に輸送と通信に利用できるものである。これがあれば、第三世界に人口あたりのエネルギー消費の増大防止を求める必要はなくなるだろう。そしてこうした技術的特効薬のみが、世界に化石燃料の劇的な削減を約束する。
「私ははっきりと見通すことができた。省エネを中心とする仕事をしていたからね。だからそのやり方が誤っているのはすぐにわかった。私が関心を寄せたのはエネルギー転換装置であり、そのための技術だった。」(P-18)
このジェフリー・バラード氏のビジョンは、ビクトリア大学デビット・サンボーン・スコット教授の提唱する「エネルギー通貨」という造語でより詳しく説明されています。
彼は「エネルギー通貨」なる便利な造語をひねり出した。この言葉はやがてジェフリー・バラードをはじめ多くの人に使われる。関連語であるエネルギー・キャリアはエネルギーの方向性や二次的なエネルギー源を指すが、エネルギー通貨は水素の特性を巧みに貨幣になぞらえていた。例えば水素はさまざまなエネルギー源からつくられるし、使い道も広い。効率よく安価につくり貯めして、必要に応じて費やすことができる。
スコットは、エネルギー源とエネルギー通貨の違いに念を押す。「ガソリン、暖房用燃料、天然ガスなどはエネルギー源です。」彼は1980年に『ウィニペグ・フリー・プレス』に語っている。「地下から掘り出すことができるからです。そしてこれらは同時にエネルギー通貨でもあります。車や家の中に持ち込めますから。原子力、潮力、太陽、風力などもエネルギー源です。しかしこれらはエネルギー通貨ではありません。車に風車をつけたり、原子炉を家庭に備えたりすることはできないからです。こうしたエネルギー源は、エネルギー通貨である電気に転換されるのです。」
電気は送電網によって家庭に送られ、熱や光や冷却に使われる。ここまでは結構だが、万能ではない。「電気をガソリンや暖房用エネルギーに代わる通貨として使うには問題があります。それは貯蔵が難しく、応用性が限られていることです。電気ではジェット機は飛ばせません。しかし電気を別の通貨にすることはできます。水素です。これなら貯蔵できるし、今日すでに使われているエネルギー通貨のように、どこででも使えます。」水素はパイプラインで供給することさえできる。スコットはきっぱりと結論している。「水素は炭化水素燃料の唯一の代替エネルギーなのです」。(P-64)
ここまでは将来的なビジョンに基づいたアイデアのレベル。しかしそのアイデアを、ジェフリー・バラード氏が自分の信じる将来として、バラード・パートナーズに語りかけ、少数ながらもチームのエンジニアが昼夜を問わず、もとは安モーテルだった研究所で開発をすすめることで、次々と技術的なブレークスルーを実現していきます。
書籍では、最終的に大成功をおさめたPEM型燃料電池以外の技術開発についても記されていて、同じチームが同様の労力をかけて取り組んでも、ある技術は失敗が失敗をよぶ、負の連鎖に陥ってしまうと振り返っています。そうではなく、改良すればするほど、よりシンプルで見通しがよくなっていく、”筋がいい技術”に取り組むことの重要性が、非常に具体的に述べられています。
「毎日、試験結果に目を光らせました」とエプ。「腰を落ち着けては、あれこれと装置の改良に取り組みました。私がなにかと改良や工夫をしてケンに渡し、彼が試験しました」。結果はその場ですぐに確認され、それに従ってさらなる改良が施された。「すごいスピードでそれを繰り返しました。『ハードウェアの反復改良法』と呼んでいましたが。評価、改良、さらに試験というサイクルを猛スピードで繰り返しました。二、三日でやってしまいましたね」
(中略)
「あのチームはたった一年で、アイデアから現物を仕上げてしまった」とバラードはいう。その理由の一端は、PEM型燃料電池自体にあった。「あれはすごく寛容な技術なんだ。手を入れるたびに、どんどん改良できた。そしてシステムは複雑化するどころか、逆にシンプルになっていった。これも筋のいい技術の一つの目安なんだよ」。充電式リチウム電池のときとは大違いだった。あの時は、常に次なる障害が現れ、手を入れるたびに複雑になっていった。「商業化できる技術というのは、手がけるほどに見通しが利くようになり、シンプルになっていくものさ」。成功が成功を呼ぶ、というわけである。「そしてそれを目のあたりにするのは、すごくわくわくするんだ」(P-100)
筋のいい技術に巡り会うことは、新しい技術を商業化する可能性を一気に高めるだけでなく、開発のモチベーションをも高めるというのは確かに想像ができます。こうなると開発者としては、まさにポジティブ・スパイラルに突入するわけで、急速に進化をとげる技術に自信を深めながら、一方で世の中にだすタイミングを計ることになる。そして、チャンスを見極める嗅覚に関しても、ジェフリー・バラードという人は非凡な才能があることがよく読み取れます。
「大きなうねりを感じたんだ。世論や技術の成熟度など、すべてが収まるところに収まりつつある感じさ。燃料電池はまさにそんな技術だった」。一つには、燃料電池技術が驚くほど急発展したことがあった。「最初からこれは行けると思った。とにかく筋のいい技術だった。単純でいて懐が深い」。大半の技術は、リチウム二酸化硫黄電池の場合のように、複雑になっていくという。しかしいまや燃料電池は、内燃機関にとって代われるだけの出力を達成していた。北米の人々が環境問題に目覚めつつあるだけに、その可能性はますます高まっている。「『チャンス到来』というのはわかるんだよ」とバラードは言う。「時の勢いというものがあるんだ」。(P-140)
可能性のある技術に、優秀な開発陣。成功が目に見えてきた時点から、しかしベンチャー企業としての試練がはじまる。シリコンバレーのベンチャー企業のCEO交代、ニュースとしては耳にしますが、その内実として、どのような理由があるのか?なかなか目にすることがない、ベンチャー企業の資金調達と、それに伴う経営権をめぐる人間ドラマの側面も、綿密に綴られていきます。
バラードパートナーたちは、所有権が希薄化して会社の経営権を失うのは自分たちにとって大きな賭けだと考えていた。しかしマイク・ブラウンはもっと大きな改革案を温めていた。プレイターはブラウンと資金について話し合い、「燃料電池には大きな可能性があり、800万ドルから1000万ドルを調達しようと合意しました。ジェフやポールのポストなど、会社の将来像についても語り合いました。そしてマイクは、CEO職について、紳士的ながらきっぱりと意見を述べました。『君がCEOでは800万ドルから1000万ドルもの資金はあつまらない、金融界は君を信用しないだろう』と」
(中略)
ブラウンはこう語っている。「創立者が会社を正真正銘の成功まで育て上げるのは非常にまれです。それだけに創立者たちがポストを譲ってほかの仕事に専念することは、別にめずらしくありません」。マイクはさらに、たいていの場合、創立者の能力や経験には、欠点があるという。「それは、今後取引しなければならない真の大企業に対して、自社をどう位置づけていくかという根本的な理解です」。
(中略)
ブラウンは相手が気分を害しているのをすぐに察した。「当然のことです。私はいつも起業家たちを相手にしています。それが私の生業です。そしてこうした提案に腹を立てないような起業家は、そもそも最初から支援に値しないのです」(P-136)
出資者を納得させるだけの経営的バックグランドと、自社のマーケット・ポジショニングに関する明確な戦略。ブラウン氏が、資金調達にあたって求める二つのポイントは明確です。ベンチャー企業の創業者が、それらの要求を満たすことが難しいのを知る一方で、同時に創業者には、自らの事業にたいする思い入れと執着心を求める。この相反する価値観のバランスをとりながら、ベンチャー企業を公開企業へと導いていく。”キャピタリスト”という職業の役割が、展開する人間ドラマのなかで具体的に描かれています。
結局、バラードパートナー達は外部からプロフェッショナルな経営者を迎え入れることを選択し、より大きな市場、自動車産業という巨大企業がひしめくマーケットに本格的に参入することになります。「真の大企業に対して、自社をどう位置づけていくか」というブラウン氏が提示した設問に対して、バラード社の経営陣がとった企業戦略は以下のようなものでした。
「そこで、私たちは20ほどの企業や機関を選定しました。自動車会社、電力会社、国立研究所、軍。そして私たちは有償でこれら各位に製品を届けました。販売したのではなくリースです。これも作戦でした。リースなら所有権と知的財産権は当社に残るからです」。第一陣として燃料電池のリースを受けた自動車会社には、ダイムラーベンツ、ゼネラルモーターズ、三菱自動車などがあった。それ以降、世界中のほぼすべての自動車会社がバラード燃料電池のリースを受け、試験車両に搭載し、数十万時間もの実験走行をした。
(中略)
リースにしたのは、技術力を示したり、切迫していた現金収入を得たりするためだけではなかった。経営陣はより微妙なメリットも狙っていた。「(リース電池の)実用試験の成功を聞く必要はありませんでした。品質には自信がありましたから」。バラード・パワーは商談に際して電池の備え付けや操作、モニター方法などを指導する顧客サービス技術者を派遣した。ラスールは朗らかに語る。「彼らの実態は営業マンでした。企業の懐の奥深く潜入して、先方の技術者や研究者たちと知り合うのが目的でした」。派遣先でかれらは燃料電池の使い道や、改良の余地について話した。「そのおかげで、当社は貴重な情報を得ることができました。他社が何を考え、何をやっているのかが、手に取るようにわかったのです」。こうして後にバラード社幹部が彼らのうちの数社を相手に、より戦略的なパートナーシップ交渉に望んだときには、「相手の狙いは、正確にわかっていました。そして彼らのビジョンに即した議論ができたのです。詳細はお話しできませんが、こうした無形の効用がありました」
(P-186)
そしてその結果は、インテル・インサイドになぞらえて、バラード・インサイドと呼ばれるような、次世代の燃料電池産業における重要なポジショニングを獲得することに成功したのです。最近では、その重要性に気づいた日本メーカーが、積極的に独自の燃料電池スタックの開発を成功させていて、一時のような独占状態ではなくなっています。しかしながら自動車産業、電力産業という巨大資本がせめぎあうマーケットにおいて、わずか数人からはじまったカナダのベンチャー企業が、ここまで重要なポジショニングを獲得できたことは、IT産業など全く新しくマーケットを作り上げるのとはまた別の意味で、大きな成功とされているのでしょう。
ベンチャー企業の技術開発と、資金調達、大企業にたいするポジショニングなど、本書は面白い要素がたくさんあるのですが、そういった個々の要素が、関係者への綿密なインタビューによって構成されていて、非常に具体的、かつドラマ性が高くて楽しめる本でした。そして本書はバラード氏の次のような言葉で締めくくられています。
「悠長に構えていてはいけません。何ごとも、待ち人には起こらないのです」。彼はその逆を勧める。それは越し方を雄弁に物語っている。「せっかいになりなさい。常識に挑みなさい。一般通念に疑問を持ちなさい。自分を信じ、自分の信じるところを話しなさい。人と違ったことを信じているなら、あえて違う道を行きなさい。よりよい何かを、求め急ぐのです」(P-291)
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