違う国の言語を話すプログラマー同士でも、プログラミングを通してお互いの意図は理解できる。ではそれがミュージシャンとプログラマーだったら?
Genさんに誘われて参加した、とあるNon-Publicなコンファレンスでのこと。Network Teamの一員としてプレゼンをし、Computer MusicやInteraction DesignのTeamのプレゼンを聞きながら議論をしていると、突然あるタイミングで、お互いが同じプロトコルを共有していることに気が付いた。
「より多様な音楽を創り出すためには、フレームワークを共有しながら進化させていく必要がある」
「フレームワークがネットワーク上でシェアされると、まったく経験が無い状態から、作品を創り上げるまでの時間は大幅に短縮されるし、皆が重複する作業する必要が無くなる」
「フレームワークは、物理的、時間的な制約を超えるための武器」
「制約がクリアされることで、本当に自分が創り上げたいと思う、その人ならでは体験(Personal Experience)を構築できるようになるのかもしれない」
この会話の文脈で利用されている”フレームワーク”は、自分にとっては概念としてのデザインパターンだったり、MVCフレームワークだったり、具体的なイメージではMojaviやStrutsなのだけれど、MusicがバックグラウンドのAtauさんや、BLOCK JAMの作者であるHenryさんの具体的なイメージは、少し異なるものであることは間違いない。
にもかかわらず、会話の文脈(Context)が食い違うどころか、より深いところへ議論をいざなって、お互いがこれまで、まったく違うフィールドで試行錯誤していたことの方向性が検証されていく。
そんな会話をまる一日続けていくと、Atauさんがプレゼンの中で引用していたBrian Enoの言葉
The problem with computers is that there is not enough Africa in them
という問題提起に対しても、もしかしたらAfricaを実現するための手段を、徐々に獲得しつつあるのかもしれない、と自信がわいてくる。Africaって何?とここ疑問に思うのは当然で、一日のディスカッションを、たったこれだけの文章ではサマライズできないから。という制約を越える方法が目の前にあるじゃないですか。
Googleで"not enough Africa in them" brian eno と検索すると、どうやらGossip is PhilosophyというWiredのインタビュー記事が引用元らしい。再び検索すると原文がしっかりありました。
Gossip is Philosophy(WIRED May. 1995)
実は、正確なEnoの引用表現を忘れてしまって、「brian eno africa musician」という検索からスタートしながら、結構苦労したんですが、出典はなんと1995年。日本語訳は存在していないようです。というかHotwired Japanがはじまったのは1997年ですね。
タイムマシーンに乗って、10年前のBrian EnoとKevin Kellyの対話を熟読。13ページもある英文ですが、ぜひ読破することをおすすめします。
In a blinding flash of inspiration, the other day I realized that "interactive" anything is the wrong word. Interactive makes you imagine people sitting with their hands on controls, some kind of gamelike thing. The right word is "unfinished." Think of cultural products, or art works, or the people who use them even, as being unfinished. Permanently unfinished. We come from a cultural heritage that says things have a "nature," and that this nature is fixed and describable. We find more and more that this idea is insupportable - the "nature" of something is not by any means singular, and depends on where and when you find it, and what you want it for. The functional identity of things is a product of our interaction with them. And our own identities are products of our interaction with everything else. Now a lot of cultures far more "primitive" than ours take this entirely for granted - surely it is the whole basis of animism that the universe is a living, changing, changeable place. Does this make clearer why I welcome that African thing? It's not nostalgia or admiration of the exotic - it's saying, Here is a bundle of ideas that we would do well to learn from.
Finishing implies interactive: your job is to complete something for that moment in time. A very clear example of this is hypertext. It's not pleasant to use - because it happens on computer screens - but it is a far-reaching revolution in thinking. The transition from the idea of text as a line to the idea of text as a web is just about as big a change of consciousness as we are capable of. I can imagine the hypertext consciousness spreading to things we take in, not only things we read. I am very keen on this unfinished idea because it co-opts things like screen savers and games and models and even archives, which are basically unfinished pieces of work.
つまり、こういうわけで、EnoのAfricaという言葉は、10年の時空を越えて二つのディスカッションの間でシェアされていたわけです。
完成されない言葉の多様性に気づくことで、一人の意識の枠を超えた思考が実現される。それ自体は、既存のマス・メディアによっても体験することができることで、例えば映画を見たり、小説を読んだりするときに、時々、作者から非常に個人的なメッセージを受け取ったような気になるのは、そういうことでしょう。
しかし会話の中では、それよりも強いフィードバック・ループが発生するわけで、それこそが思考をスピードアップさせる。もう少しEnoの言葉を引用すると
Cybernetician stafford Beer had a great phrase that I lived by for years: Instead of trying to specify the system in full detail, specify it only somewhat. You then ride on the dynamics of the system in the direction you want to go. He was talking about heuristics, as opposed to algorithms. Algorithms are a precise set of instructions, such as take the first on the left, walk 121 yards, take the second on the right, da da da da. A heuristic, on the other hand, is a general and vague set of instructions. What I'm looking for is to make heuristic machines that you can ride on.
フレームワークに関する議論が成り立っていたのは、フレームワーク自体がHeuristicな要素だからに他なりません。
ところで、そんなこんなの解説は、コンファレンスの次の日にEnoの文章を読んだからできることじゃないか?という見方は、ある意味で間違っていないけれども、正しくも無い。なぜならAfricaを巡る文脈は、昨日の時点で完全にシェアされていたという事実があるからです。
そしてもしかしたら、ここにいたるまでに、Gossip is Philosophyを読んでいた人であれば、この文章を読んでいるという現時点でも、一つの文脈としてAfricaがシェアされているからです。
別に”なぞなぞ”をしているわけではなくて、昨日(2004年12月)のコンファレンスでジャンルをまたいだ参加者が議論をする過程で気づいたのは、もしかしたら我々は、意思疎通をするための新しい手段やインフラストラクチャーを獲得しつつあるんじゃないか?ということだったからです。
フレームワークは、頭の中でアイデアを構造化していくための手段であり、同時にインターネット上で共有されているソースコードでもあります。WEBプログラミングの世界であれば、PerlやPHPなどの言語を理解できれば、考えることと実際にモノをつくることが限りなく接近してきている。共有知識であるフレームワークがあるからこそ、一人でも自分の世界観を反映したアプリケーションやサービスを構築できるようになってきています。
AtauさんやHenryさんによれば、Computer Musicの世界でも同じことはおきつつあって、楽器を演奏する技能の習得だけに時間をかけることなく、それよりも個人が持つ感覚やストーリから強く影響をうける音楽が出てくるかもしれないと。
コンピューターやインターネットが、本当の日常のインフラとして浸透してきたこの10~15年、それぞれの領域で既存の枠組みや、物理的な限界、思考をLimitするものから開放されようと試行錯誤を繰り返してきた結果、ある一つの方向性をシェアしつつあるのは非常に興味深いことのような気がします。
それは完成されない流動性を持ち続けること。変化ということだけではなく、過去の言葉や理論にも直接リンクして、新しい価値の再発見を促すということ。無限の組み合わせがあるようでいて、自分の求めるものを創り出す方法論として、ネット上で進化をつづけるフレームワーク。そして異なるジャンルであっても、プログラミング上の方言さえ理解できれば利用可能な言語としての相似性。
こういったものの見方は、すごく抽象的なことのようでいて、それがあるか無いかが、かなり現実的な決断や結果に結びついているような気がしてなりません。
なぜ多くの人や企業がFreeのオープンソースプロジェクトに貢献しようと考えるのか。なぜAppleはUnix(Free BSD)をうまく利用して、新しい価値の創造にフォーカスすることができているのか?なぜAmazonは何に使われるか分からないWEB Service APIを膨大なコストをかけて開発して、しかも完全にオープンにしようと考えたのか?あるいは逆に、OpenSourceのメリットを受けられず、AppleやGoogleやAmazonのようになれない会社は、何に制約されているのか?
そのヒントは十分以上に、今に宛てられた10年前のEnoのメッセージに含まれているような気もします。
Oddly enough, I rarely talk to young musicians, but I talk to many young painters, because I teach in art schools. I ask them: Why do you think that what you do ends at the edges of this canvas? Think of the frame. What frame are you working in? Not just that bit of wood round the edge, but the room you're in, the light you're in, the time and place you're in. How can you redesign it? I would say that to musicians, too. I see them spending a lot of time working on the internal details of what they're doing and far less time working on the ways of positioning it in the world. By "positioning it" I don't only mean thinking of ways of getting it to a record company, but thinking of where it could go, and where it fits in the cultural picture - what else does it relate to?
ブライアン・イーノの『アフリカ』発言は、確か僕も修士論文で言及しました。日本語訳のあるインタビューでも語っています。http://hotwired.goo.ne.jp/speakout/interview/970901/brian.html
投稿情報: せとう | 2004年12 月17日 (金) 11:43