「ブログってなに?」という質問にはもう何十回も答えて、そのたびに新しい説明を見つけてきたけれど、アフリカのサファリの最中、キャンプのランタンの明かりの下での議論は面白かった。
マスメディアとの違い。新聞や雑誌の名前じゃなくて”書く人の名前”が前面に出ること。マスだと思われている、数少ないチャンネルに依存するのでは無くて、100個のブログを読んで、その中から自分が正しいと思うものを見つけること。メディアという器を信用するのではなくて、誰が書いたかで信用する。
アイデアを隠さずに公開することで、より発想を広げていくこと。アイデアを組み立てて、ソフトウェアとして使えるようにすること。オープンソースや、フリーソフトウェアとの関係。などなど、まあよく言われていることを一通り説明した後に、60歳(推定)のアイルランド人、ブライアンの一言。
「なんだか1960年代に、そんなことを聞いたような気がする」
そうそう、ミッチ・ケイパーなんかまさにフラワームーブメントの影響をもろに受けてLotusだし、ジョブズもウォズニアックも西海岸でMacを組み立てた。リチャード・ストールマンのGNUも、ある意味60年代からのイデオロギーだし、ティム・オライリーとともにオープンソース活動で重要な役割を果たしたラリー・ウォールが創ったPerl言語で、MovableTypeは作られている。
ついでに言うと、iPodがはやってるのは、Unix好きのハッカーがMac OS Xっていいじゃん!と使い始めて、iTunesみたいないいソフトウェアができたからだよ、とはちょっと言い過ぎたかもしれないけれど。
「フンフンそうか、あの頃は何だか浮ついたことをロックで歌っている、ぐらいにしか捉えられてなかったけど、テクノロジーという形で世の中に浸透して、インターネットが生まれて、サファリを検索して、お前とオレはアフリカで一緒にキャンプをしてるのか」
と、妙に納得していました。
自由に思考する文化、フリーカルチャー。音楽やアートという感覚的な表現から始まったものが、ブログというソフトウェアや、クリエイティブ・コモンズという法律の形で、いつのまにか誰にでも使えるようになっている。
60年代の学生運動を経験したはずの物書きの人が、中国のデモは、60年代の日本の社会的不満のようなものがネットで煽られたガス抜きですよ、などとしたり顔で話している。自分に与えられた言論の自由の価値の大きさは、空気のように当たり前のものなのだろうか。
世の中で流行していると見ると、「そんなものは前からあった、だから、ああでなければいけない、マナーが云々」と自分のテリトリーを主張し始める輩は、大抵、規制という網をかけようとする。なぜなら自分がその価値を理解できないから。
好きなことが書ける、読める。得た知識から行動することで、新しい土地や人に出会う。その経験を表現することで、新しい意味をみつける。だから、それぞれが好きな音楽を聴き、好きなことを書けばいいのだと思う。自由は自分の中にあるものなのだから。
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